8.名前を呼んで


 由利は紫藤の手を両手で包むように握る。
「ねえ、返事してよ……」
 病院のベッドの上の紫藤は微笑んだ。鼻から延びるチューブが痛々しい。由利が握ってる手も、去年ベッドの上で握ったそれよりも細く、弱々しいものになっている。
 紫藤の折れそうな腕が、由利の頭の上に乗せられる。由利は一気にこみ上げてきた。由利は鼻水が垂れるのも気にせず紫藤にすがりついた。おいていかれたくない。ただそれだけを思っていた。
 もう別れの時だというのが、紫藤には、そして由利にもわかった。由利は長袖で乱暴に涙を拭き取りいう。
「名前を、呼んで……」思い返せば、由利は紫藤から一度も名前で呼ばれたことがなかった。せめて最後に。それを思い出に、生きていきたい。由利はそう思い、いった。「お願い、名前を呼んで」
 紫藤はふたたび微笑みながら、掠れた声で「康雄」と、由利の名前を呼んだ。

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