baselineReview/Mystery

中井英夫を追って

《2013-12-22》   

 ――黒天鵞絨びろうどのカーテンは、そのとき、わずかにそよいだ。

 突然、文庫本が照らされ、僕は顔を上げた。そこに広がるのはわずかばかりの雪と、青い海だった。季節は冬。忘年会には少し早い時期だった。



 思い立ったように僕は文庫本一冊をかばんに詰め、JR北海道の小樽行きの列車に乗り込んだ。文庫の表紙には、青薔薇が琵琶をひいている絵が描かれている。 ――虚無への供物。中井英夫の遺した、日本探偵小説史上の三大奇書の一冊であるそれの、講談社文庫版だ。
 ……行く先は小樽文学館。そこで行われている『虚無への供物』の作者である中井英夫の没後二十年の特別展示が目的だった。

 虚無の大海に落とす一滴の美酒を醸すため、
 全生涯を賭けた作家


 特別展示に関しては、実を言ってしまえば私は、死者の遺したものを暴くという行為に、いささか墓泥棒めいた抵抗を感じる。しかし本展示はそのような生臭さは珈琲と古本の匂いで打ち消され、むしろそれが心地よい空間形成に役だっていた。
 個人的には中井英夫に対して、著作を読んだことがある、という程度の認識しかなかった。だがしかし、再現された彼の書斎を見て、遺品を見て、文字を見て、そのあとに再び読みだした『虚無への供物』の文章は、なにやら血が通っているように見えるものだから不思議だ。

 『なぜ北海道で中井英夫展なのか』という疑問は、『虚無』を、そして展示物を見ればよくわかった。 祖父は、かのクラークの弟子。また彼に大きな影響を与えたであろう女性・中城ふみ子の出身地である北海道。『虚無への供物』にも、北海道というモチーフは密やかに、されど強かに流れていたのだ。




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