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BD-PG「さよならを教えて」(CRAFTWORK/VisualArt's)

《2013-12-12》   
[ADV]

 ようやくなんですが、『さよならを教えて ~comment te dire adieu~』をクリアしました。 長らく入手困難だったのですが、BD-PGでビジュアルアーツさんが出してくださったので。

注意以下、『さよならを教えて』の全ルートのネタバレを含みます。ご注意ください。



 ……とは言ったものの、『さよならを教えて』の考察については各種サイト様・掲示板でなされているのであまり意味はないので捨て置くとして、 私のこのページでは、『さよならを教えて』の内容を掘り下げるというよりも、外面から見た感想などを書いてみようかと思います。
 『三大電波エロゲの一つ』や『鬱ゲー』の名高い『さよならを教えて』は、 実際狂ったような文体(狂人の一人称)・シナリオ構成(前後関係・生や死・物理的法則の完全な崩壊)・演出(地の文と背景画像に明らかな相違がある)など、 確かに狂ってはいる。だけどそれはあくまで『計算しつくされた狂気』であり、決して闇雲にいわゆる『狂人の日記』を描いているわけではない。
(ちなみに山手線線路図を円形に直し、登場人物の苗字である巣鴨―田町―高田(馬場)―上野―目黒―巣鴨と線で繋げるときれいな五芒星となる)
 本作はプレイヤー、そして『エロゲ市場』を痛烈に批判している。
 このゲームが世に出た当初(2001年)の状況を、私は知らない(未成年だったので)のだけれど、その頃のエロゲは『月姫(同人だけど)』や『AIR』といった名作が揃っていた時期であったようだ。 と、その一方で『果てしなく青い、この空の下で…』『螺旋回廊』といった『鬱ゲー』というジャンルも確立していた、らしい。
 そこで本作、『さよならを教えて』である。
 本作は、まっとうな恋愛シナリオが存在しない。それは鬼畜だとか調教などだからではなく、元来の意味での、原初的な意味での「相互的な恋愛」が存在しない。 作中主人公で、屋上のカラスや仔猫、標本やゴミ捨て場に捨てられていた人形を自らの教え子である女の子だと錯覚(といっていいのかはおいておくとして)して 「彼女達を救わなければならない」と奮起する。だがそれは結局のところ、自己の投影(=ヒロイン)を「弱いもの」と決め付け大義名分の元に、ヒロイズムに酔っているだけに過ぎない。
 恐ろしく不毛な自慰行為。
 自己の投影である上野こより(=人形)を殊更積極的に(能動的に)破壊しているのは、自己嫌悪を都合よく裏返してるのに過ぎない。本質的には自傷だ。 「そのヒクツさはぁ、すでに傲慢ですよぉ」という言葉に現れている様に。  そして物語の核心である「睦月」ルート。彼女は彼の妄想の中で「樹で首を吊る」ことで一足先に退院した(現実の因果としては逆なのだが)。 それでもこの物語の真のエンディングが「他のEDと結末が変わらない」というのは、最大のキモだ。
 唯一の人の身であるヒロインが相手ですら、恋愛が成就(いわゆる他のゲームでのトゥルーエンド)にならない。
 これはおそらく、一般的なアダルトゲームの、有り体にいう最上のED(=正ヒロインとの成就)へのアンチテーゼ、 そしてそれらのテンプレを当たり前の設定と受け入れていたプレイヤーへのカウンターなのだろう。
 つまりこのゲームは、「アダルトゲーム」では当たり前の構造を逆手に取り、本来の「恋愛行為」が外へ外へと向かっていく所を、『さよならを教えて』では閉じた輪の中に追い込んでいく、という形になっている。 いうなれば「アンチエロゲ」。アダルトゲームのご都合主義的恋愛性を、狂気に裏付けされた異常なまでのご都合主義で叩き潰そうとした怪作である、と。
 とはいえ、この『さよならを教えて』は、プレイヤーに「考えること」を委ねるどころか、あまりにも強いすぎている。何がどのパズルのピースなのかわからない、組んだその絵があまりにも奇矯すぎて正解だかすらわからない。 そんな無限迷宮的な酩酊感は夢野久作の『ドグラ・マグラ』にも通じるところがある。
 だがそれは商業作品としては世に出る、あまりにもハードルが高すぎたのではないかなぁと思った。決して無意味ではない、というかむしろこの作品が世に出たからこそ、 という部分はあるのだが、いかんせん上面にしろ中身にしろ、あまりにも人を選びすぎるという点が大きな問題になっているような気がしてならない。


 勢いで書いた。推敲はしてない。

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