短編


*3118回目

「今度は、優しく死ねますように」
 白いワンピースを着た少女は組んだ指を胸にあて、そう呟いた。少女は神様なんてものを、白馬の王子様と同じくらい信じていなかったが、自分に言い聞かせるかのようにその祈りの仕草をした。
 どうせ無駄なのは、他の誰よりも少女自身が知っている。あと数十分もしないうちに、彼がやってくる。既に聞き慣れてしまった、金属同士が擦れる音を纏いながらやってくる。彼の右手には、大きなチェーンソーが握られている。毎回毎回、寸分狂わずそうなのだ。
 残念なことに、少女はこの部屋から出られない。この部屋というのはもちろん、いま現在少女が指を組み、祈りを捧げている部屋のことである。四方と床と天井を正方形の白い壁で囲まれた部屋。部屋の中には、六面のうちの一つに金属で出来た扉があるが、その扉に取手などのようなものはなかった。理由は簡単で、扉を内側から開ける必要がないからだ。蝶番があることで辛うじて扉だとわかる、実質は金属の分厚い板だ。
 その扉の上には、カチカチと音をたてる丸い時計がかけてある。普通のアナログ時計である。十二個のローマ数字が、円卓に並んでいるどこまでも普通の時計である。
 少女はその部屋で暮らしていた。物心がついたときから、この部屋にいた。そして、この部屋から出ることを許されなかった。どこにも行くことはできなかったし、外を見ることすら出来なかった。少女には、自由というものを与えられなかった。少女はこの部屋以外の世界を知らなかった。
 少女は以前、自分を殺しに来る彼に訊ねたことがあった。

「ねえねえ、お兄さん。大きな鋸を持ったお兄さん。これから私を殺すお兄さん。お兄さんはどうして私を殺すのかしら。どうして、お兄さんは私を殺すのかしら。どうして何度も何度も、何度も何度も、私を殺しに来るのかしら」

 彼は躊躇いながらも、少女の質問に答えた。
 きみはこの世界の光なんだ。きみが生きているときは、世界は光に包まれている。光は大切だ。だからきみも大切だ。だけど、光だけでは世界は生きて行けない。光が当たり過ぎると、植物だって枯れる。夜には、光は生きていてはいけない。だから光を殺すんだ。光を殺すということは、つまりはきみを殺すということなんだ。きみは、この世界の光なんだから。
 それが少女の聴いた、初めての他人の声だった。しかし、少女には彼の言っている意味がよくわからなかった。そもそも光とは、世界とは何なのだろう。この部屋しか知らない少女は思案した。
 彼は、また続ける。
 何も知らない民衆は空には太陽というものがあって、それが光を与えてくれていると思っている。でも、それは真実ではないんだ。太陽は、ただ単にきみが生きていることに反応して強い光を発しているだけに過ぎないんだ。まったく、愚かなことだよね。
 この部屋しか知らない少女には、やはり太陽というものも理解できなかった。知識としては知っていたが、実物は見たことがなかった。
 彼の話を何度が聞くうちに、少女はようやく満足に認識できるようになった。
 つまりは、この世界が明るいのは少女が生きている間で、暗いとき――夜と言われる時間帯は、彼女が死んでいる間なのだ。
 ようやく、少女は自分がこの密室に閉じ込められている理由を理解した。つまり世界の昼夜は、少女の生死とリンクしている。世界の昼夜を調整するために少女はこの部屋に閉じ込められ、そして殺され続ける。毎日、毎日、毎日。そして次の朝にはまた、生き返る。たったそれだけ。少女の存在意義は、それだけなのだ。
 世界を動かすには、如何なる犠牲を払っても。それがいつも彼の言う――そして少女の聞く、最後の言葉だった。

 部屋にある唯一の装飾品である時計の短針が、Ⅴを示す。少女は祈るのを辞める。それと同時に、ガチャリと金属の扉が開く。いつもと――昨日と同じ姿の彼が、やはり右手にチェーンソーを持って部屋に入ってきた。
 少女はそっと微笑み、床に大の字に横たわる。彼は扉を閉め、少女の横までやってくる。彼がチェーンソーの電源を入れる。鋭い刃が高速で回転する。何かが焼けたような臭いが、少女の鼻につく。
 彼は刃が回転するチェーンソーを、少女の右脇に近づける。ゆっくりと近づける。時間をかけて近づける。少しずつ皮が裂け、少しずつ肉が抉られ、少しずつ血が飛び散る。回転する刃は止まらない。回る回る回る。チェーンソーが床を削る。少女の右腕が飛んでいく。そこから、赤い血が流れる。流れる。少女の意識は、少しずつ薄れていく。
 彼は少女をすぐには殺さない。世界が急に暗くなればパニックになるからだ。ゆっくり、夕陽が沈むように。ゆっくりと死に向かわせる必要があった。
 彼は回転したチェーンソーを、そのまま少女の左脇当てる。ぎゅりぎゅりと、少女の小さな身体を少しずつ削りとる。ぎゅりぎゅり。しばらくすると、左腕が遠くに跳ねる。彼女の意識は、もうほとんどなかった。
 刃の回転を止め、彼は部屋の時計を見る。時計の短針はもうすぐⅦを指す。そろそろいいだろうと、彼はチェーンソーを少女の首に添える。これで世界は夜になる。そして少女が再生するまでの約12時間、世界は闇に包まれる。それが世界の秩序だからだ。
 彼はチェーンソーを回した。


*3119回目

 少女が深い眠りから目を覚ましたとき、時計の短針はⅤを指していた。どうやら今回も上手くいったようだ。少女は右手をきつく握る。なんら異常はない。腕は、両方とも健在だ。昨日のことなどなかったように、まるで夢だったかのように、少女の両腕はあるべき場所にしっかりとついている。

 少女はだるそうに壁に寄りかかり、ふぅと深く溜め息をついた。
 少女はこの世界の秩序にも、昼夜と生死にも、興味などなかった。なぜこの存在を甘んじて受け入れているのか。抵抗すればいいのではないか。少女には、そんなことをする気が起きなかった。例えば、ここから逃げてどうすればいいのだろうか。そもそも、本当に『世界』などというものは存在するのだろうか。考えれば考えるほど、どうしようもなくなる。少女は、考えることを止めた。どうでもいい。もう、どうでもいい。もう何度繰り返しただろう。ただ、死ぬときの痛みだけは慣れることはない。それだけはどうしようもない。だから、少女は指を組んで、胸にあてる。
「今度は、優しく死ねますように」


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*3496回目


 そこは地下室。ある建物の地下室だ。
 その地下室の廊下を、僕は黙って歩いていた。僕が物心ついた頃からいままで、毎日同じことを繰り返していた。それが僕の仕事であり、生きている意味なのだ。
 僕は右腕にしている時計を見る。デジタル時計で、そこには4:45と映しだされている。頃合いとしてはちょうどいいだろう。

 僕には両親がいなかった。僕が生まれているのだからその表現は間違いなのだが、自分が記憶している限り、親というものがいた覚えはない。気がつけば、この地下室への道を歩いていることが普通の出来事で、日々の習慣になっていた。否、それ以外のことを行った記憶がなかった。建物にある自分の部屋と、この地下室を行き来するだけの毎日。この右手に持っている鎖鋸も使い慣れ、グリップが手にフィットしている。
 この世界は、ひとりの少女によって支えられている。そう言っても過言ではない。その少女のおかげで、この世界の夜と昼が成り立っている。だから僕は、少女を殺さなければならない。教祖様の言っている意味が僕にはよく理解が出来なかったが、つまりは少女を殺すことによって世界は夜になり、再生することによって世界に日は昇る、らしい。教祖様がそう言うのだから、間違いないのだ。
 僕は地下にある一室の扉の前まで来ていた。この扉の奥に少女がいる。
僕は、いつものように扉の前の男性に頭を下げた。この扉の内側には取手がついていないため、外から誰かに開けてもらわなければならない。扉の前に立っている男性は、そのためにここにいる。僕が少女を殺し終え内側からノックすることで、彼はここを開けてくれる。それが彼の仕事であり、生きている意味なのだ。
 僕は金属の扉を開け、中に入る。

 ――今度は、優しく死ねますように。

 少女は、指を組み、祈っていた。
 白いワンピースを身に纏い、黒い髪を腰まで垂らし、少女は祈っていた。
 バタンと、金属の扉は閉まる。
 その音で少女は気づいたらしく、僕に向かって微笑んだ。優しく、微笑んだ。
 僕は、絶句した。

 少女が祈っていたなんて、知らなかった。優しい死を望んでいたなんて、知らなかった。そもそも、彼女が苦しいと感じているだなんて、考えたこともなかった。それでも、毎日殺されていても、僕にあんな笑顔をくれるなんて。この、少女を何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、殺してきた僕に。それはきっと死にたくなる程の苦しみを、与えてきた僕に。

 この少女は、異常だ。
 では、自分はどうだ? 狂ってやしないか? 少女が自らの境遇になんの不満も持たないように、彼女を殺すということに、苦しみを与えるということに、なんの疑問も持たない僕は、はたして正常だと言えるのか。そもそも――正常、とは?

「……きみは、ここから出たいかい」

 気づいたら、僕は少女に訊いていた。彼女は首を傾げたあと、どうでもいいと答えた。どうせ望んでもどうにもならないのだからと、彼女は言った。僕はああ、と思った。

「じゃあ、僕と一緒にここから出ないかい」

 僕の誘いに、彼女は頷いた。僕もどうでもよくなっていた。教祖様だとか、昼夜だとか、世界の支えだとか。そんなものは、もうどうでもよかった。一度持ち始めた疑問は、圧倒的な比例定数を持って膨らんでいく。
 ただ殺すために生きてきた僕は、少女に左手を伸ばした。
 ただ死ぬために生きてきた少女が、僕のその手を取る。
 もう、世界なんか。
 僕は金属の扉を二回ノックした。ガチャリと、扉の奥から男が顔を見せる。僕はその顔に向かって、振り上げていたチェーンソーを下ろした。刃は回転こそしていなかったが、重量があるそのチェーンソーは男性の額を割るのには十分な威力を持っていた。僕は少女の手を取り、部屋の外に出た。走る、走る、走る。強く握り合いながら、地下室の廊下を僕たちは走った。途中で出会った男の頭にも、チェーンソーで殴りかかる。もう何度も少女を殺してきたという事実と経験は、僕の良心や戸惑いを根こそぎに奪っていた。だから躊躇などはない。人を殺すことなど、世界――もしくは少女――を殺すよりも、どれほど楽な行為か。僕は少女と共に走る。

 ようやく建物の出口にたどり着く。もう少し、もう少し。
 目の前に、一人の男が立っていた。僕が教祖様と呼んでいた男だった。僕が誰よりも尊敬している人間である。僕は立ち止まり、少女の手を離す。教祖様が言っていたことを思い出す。僕が教祖様から教わったたった一つのルール。そのルールに従い、僕は少女を何度も殺してきた。苦しみを与えてきた。教祖様から教わったルール。

『世界を動かすには、如何なる犠牲を払っても』

 僕はチェーンソーのスイッチを入れる。
 それと同時に、それを教祖様の首元にあてがった。
 僕は教祖様の教えを忠実に守り『世界』を動かすことに決めた。その『世界』はたった一人の、白いワンピースの少女。
 教祖様は口を開けながら、頭だけが後方に飛んでいった。残された身体は、首が付いていたところから赤い液体を出しながら倒れた。やはり、教祖様は特別な存在だったのだろう。
 だって、少女はこんな赤い液体を出さないのだから。
 再び僕は少女の手を取る。もう後ろからは誰も来ない。誰にも追いかけられることはないのだ。
 僕らは、扉を開けた。

 ――真っ赤な夕日が、僕らを染める。
 太陽はすでに落ちようとしている。僕は少女を見遣る。少女は、僕の傍らで、にこりと笑った。

<了>



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