『彼岸花と死すべき世界』プロローグ




 夢というものを正確に覚えている事はほとんど無い。
 たった今、教師から叩き起こされた俺も例外でなく、さっき見ていたはずの夢の内容はすでに霧がかかっていた。
 
「ほら、網代(あじろ)君! 寝てないでちゃんと聞いてなさい!」
 担任であり、古典の教師でもある黒川成実先生が俺の顔を覗き込んでいた。
 おっと、今は授業中だったのだ。そういえば、前回の授業も寝てて注意されてたんだっけか。
 俺は目を擦りながら教科書を開く。
 適当に開いたところで目に入ってきたのは、『竹取物語』。
 『竹取物語』といえば、あの『かぐや姫』とも言われる話である。
 そして、俺の幼馴染みが大好きな、俺にとっても少しだけ思い入れのある話だ。
 ―――っと、成実先生がジト目でこちらを見ている。
 今は『竹取物語』ではなく、『源氏物語』の授業だ。
 『源氏物語』とは、紫式部さんが書いたと言われる全54帖からなる長編小説である。と、成実先生が言っているのだからそうなのであろう。重要、テストに出るので覚えておこう。
 
 退屈な授業なので、俺は窓の外に目をやる。
 山と海が見える――いや、山と海しか見えないこの景色も、ずいぶんと見慣れたものになった。……それもそうだ。俺は生まれてこの方、一度もこの町から出たことがないのだから。
 俺はこの『壱ノ支(いちのし)』で生まれ、そして育ってきた。別に出たいとも思ったことはないし――これからも思わないだろう。特に何かがあるわけでもない、強いて挙げるとすれば自然と温泉くらいしかないこの『壱ノ支』を俺は気に入っていたからだ。
 少し高いところに建っているこの学校からの、山と海しか見えない景色も、俺は気に入ってる。
 間違いなく、俺はこの町が好きだ。

「……網代、くーん?」
 殺気。ああ、成実先生が俺の真横に立っていた。
 窓の外を見るのに夢中だった俺は気づかず、教科書チョップの餌食になった。


 四時間目の古典の授業内容は残念ながら、成実式教科書背表紙チョップにより脳内HDDから吹っ飛んでしまったようだ。
 授業ノートを見る。
 ……ミミズが這ったような文字しか書いていなかった。どうやら夢を見ながら記述されたもののようだが、残念ながら今の俺には解読不能な……解読するのも不毛な文字になっている。ノート提出があるので誰かから借りなきゃいけない。
 俺は少し離れた席にいる友人のアキを見る。眠そうな顔をしている。アイツはまぁ、ノートなど確実に取っていない。つうか、多分アイツも寝ていたはずだ。基本的にそういうやつである。断定できる。取ってなどいない。
 ことにゃんは取ってるだろうけど、貸してくれないような気がする。じゃあ、選択肢は一つしかないかな。
 俺は教室を見回す。たしか、彼女の席は――
 立ち上がり、廊下側の席まで歩いていく。
「やあ、はぼろん」
「あ、網代くん」
 彼女は微笑みながら俺を見た。
 松嶋はぼろ。栗色ふわふわウェーブのメガネっ娘で、このクラスの委員長である。
 そして、部活のメンバーの一人でもある。
「どうしました?」
 お弁当と思われる可愛い柄の包みを机に広げながら、彼女は首をかしげている。そんな何気ない仕種も弁当の包みに負けず、非常に可愛い。まったく、アイツにも見習わせたいくらいだ。っと、あんまり長く話すのも良くないので、端的に用件を伝えよう。
「はぼろんはぼろん。さっきの授業のノート、後で貸してくれないかな?」
「あ、やっぱり写してらっしゃらなかったのですね…………はい、どうぞ」
 あらあら、と言いながらも即決で貸してくれたはぼろ。俺はそのノートを丁寧に受け取る。優しすぎる。これは、汚したら切腹モンだな。
「ありがとう。急いで返すよ」
 五時間目の数学が、このノートを写すのに使う時間ということは決定事項である。
 時計を見ればそろそろ時間なので、俺は自分の席に戻り、弁当を取り出す。とはいえ、ここで食べるわけではないのだけれど。俺は弁当を持って教室を出た。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「遅いわよ、ばか」
 出会った途端に罵倒ですか。
 いや、旗本折(はたもと せつ)とはこんな女なのだ。
「一応、俺は上級生だぜ? つうか、バカっていった奴がバカなんだぞ」
 一年生で、後輩で、幼馴染みである折に、テンプレートのような対応をしてみる。
「じゃあ、二回言ったアンタが二倍ばかじゃないの」
 うん、悪魔だ。

 ここは学校の屋上である。
 本来、鍵がかかっているはずの屋上になぜ入れるかというと、部長が秘密裏に鍵を作ったからだった。
 その原材料はアイスキャンディーの棒。道具は彫刻刀である。
 その目的はまったくの不明だが、部長曰く「お前、アレだろ。『青春』って言ったらなんだ? バッカ違うよ。どう考えても、屋上だろー!?」らしい。そう言って部員全員と折に作って配っていたのだから、きっとそういうことなのだ。目的どころか、その部活の存在すら何もかもが意味不明である。何をやりたいのだろう?

「で、何で遅れてきたの?」
 せめてもう少し可愛く言って欲しい。首の傾げ方が、これじゃあ極道だ。はぼろとはまるで雲泥の差、月とすっぽん、ランチュウと深海魚だ。
「授業でわからなかったとこがあったから、友人に訊いてたんだよ」
 限りなく嘘に近いグレーな言い訳。
「アンタに友人なんかいたっけ?」
「まあ、数人は」
 俺がそう答えたときにはもう興味は失ったようで、すでに段差に座って弁当を広げようとしていた。
 やれやれ。俺もその隣に腰を下ろす。
「ね、アンタのとこの今日のおかずは何なの?」
「ナンじゃないぞ」
「え?」
 俺のハイクオリティな返しは、どうやら通じなかったようだ。
「……ハンバーグだってさ」
「ふーん、朋菜(ともな)ちゃんの手作り?」
 朋菜とは、俺の実妹の名前である。性格はアレだが、料理は上手い。
「で、お前は?」
「えっとね、和食で攻めてみた。きんぴらゴボウと、にんじんとエノキの炒め物と……これは昨日の残りだけど、煮物ね」
「グッジョブ」
 コイツも性格はアレだが、料理は上手い。幼馴染みであるこいつの料理を、学校がある日は毎日飽きずに食べている俺が言うんだから間違いない。なんだろう、性格がアレな人間は、料理が上手いという決まりでもあるのだろうか?
 一年生である折が入学してからは、昼休みはこうして過ごしていた。折が言うには「誰かに食べて貰うほうが、作る意欲が湧く」とのことで、俺からしてみれば「上手いものが食いたい」。お互いの利害が一致した結果である。
 ……別に、俺でなくてもいいような気がするが。まぁ、きっとツンデレというやつなのだろう――と前に言ってみたら、殴られた。チョキで。別の名を目潰しともいう。
 うん、でもきんぴらゴボウが非常に美味い。
「おいしい?」
 折が俺の顔を覗き込んでくる。もう、十何年見慣れた顔だ。特別、胸が高鳴るわけでない。
 例えるなら、妹のようなものだ。それに――
 俺は何も言わず、もう一度箸を伸ばす。折が満足そうな笑顔を向けてくる。
「……そうだ。ゴボウは身長が伸びるらしいぜ」
「……そうなの?」
 意外そうな顔をしながら、箸で取ったきんぴらごぼうを見つめる折。
「胸が大きくなるかは知らんけどな。あっはっは……」
 ブチン。
 瞬間、俺の弁当箱の中の玉子焼きが、消滅した。
 豪快に租借する折。表情は、前髪に隠れて窺い知れない。
 …………あ、またやっちまった。
 俺は特殊部隊ですかね? 仕事は主に地雷を踏んづけること。
「…………そうね。あれかしら。柳津先輩も、胸が大きい方が好きなのかしらね?」
 折の持つ箸がプルプルしてる。絶対に怒ってる。
「さ、さぁ?」
「柳津(やなづ)先輩が大きい方が好きだっていうんなら、大きくしたいところだけど、少なくともアンタに言われる筋合いは無いわ」
「……ごもっともです」
 『柳津先輩』というのは、俺が所属する部活の副部長である。
「……お前の趣味が、正直よくわからない」
「何よ? あの人、いいじゃない。……それとも雪春、アンタもしかしてやきもち焼いてるの? ん? ん?」
 そう言って、カラカラ笑いながら端の後ろで頬を突付いてくる折。やきもち……ではないのだが、幼馴染みの恋愛事情を聞くのはどうも面白くない。なんというかこう、モヤモヤする。娘を嫁に取られる父親の心境って、こんな感じなんだろうなぁ。
「確かに、いい人だけどなぁ……」
 弁当の中を覗いたら、既にほとんどのおかずは無くなっていた。
 おいおい、俺のメインおかずのハンバーグはどこへ行った?



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 屋上で昼食を取り終え、折と別れる際、『覚えてるんでしょうね? 今日の晩御飯はアンタのおごりで美味しいもの食べるんだから。六時にいつものところ待ち合わせよっ!』とか言われた。ああ、そうだった。今日はアレだ、朝の待ち合わせに遅刻したのだ。俺たちのルールでは、待ち合わせに遅刻したら相手の命令を一つ聞くということになっていた。……もっとも、遅刻するのは俺オンリーだので、『対網代雪春用罰ゲーム』みたいになっている。俺が遅刻したときの、折の大抵の命令は食べ物関係なのでお金がいくらあっても足りない。なんていう理不尽な罰ゲームだ……ごめん。俺が遅刻しなければいいだけですね。

 五時間目の数学は、はぼろから借りた古典のノートを写すのに使った。
 だから数学のノートは取ることが出来なかった。仕方ないので、またはぼろから借りることにする。それを六時間目の世界史で写すのだ。
 ……ん?



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 部室に向かう俺。こうやって廊下を歩いていると、この地味な学校もこの時期は活気づいているのがわかる。
 学園祭を一週間前に控えた、準備期間中なのだ。
 授業は今日で終わり、あとは学園祭当日まで準備に回される。そして学園祭が終われば終業式、夏休みに入るのだ。この校舎全体がふわふわと落ち着かない空気を醸し出しているのもそのせいだろう。
 廊下にはいろいろなキャラクターの絵やら、いい男のポスターやら、燃えるような無駄にアツいスローガンやらが貼られている。これらを見ても、この学校の行事がいかに楽しみにされているかわかるだろう。この町では、ほかに娯楽がないからな。
 っと、そうこうしているうちに部室の前に着いた。ノックして入るのは、ここの決まりである。中から声が聞こえたので、誰かしらいるようだ。俺は扉を開ける。
「……ちーす」
「おっ、来たか」
 部室の中には、メガネをかけた青年が床に直に座っていた。
 彼は柳津悠斗先輩。上級生で、この部の副部長で……えっと、折の片思いの相手である。
「あー、まだ誰も来てないみたいっすね」
 俺は部室の中に入りながら言う。この部室は無駄に物が多いので、正直狭い。しかも、ただでさえ狭い部室に、学園祭の出し物である制作物まで置いてあるのだ。もう、文字通り足の踏み場も無いくらいに。
「先輩」
「ん、なんだ?」
 身体を発泡スチロールの粉まみれにしながら、メガネを直してこちらを向く柳津先輩。
「今日は、部長は?」
「『ツチノコとビッグフットを捕まえて展示する』とかなんとかいって、HR終わったらすごい勢いで帰った」
 あれ、いつの間に展示作品がUMA特集になったんだろう?
「……今日、ちょっと用事あって早く帰らなきゃならないんすけど、大丈夫ですかね?」
 副部長は少し考えて、
「ああ、まぁ大丈夫だろ。秋良も来てくれるらしいしな」
 俺は柳津先輩の隣に座り、まだ削っていない発泡スチロールの塊と設計図を手に取る。副部長である柳津先輩ですら何が出来上がるのかわからないらしい代物を、俺たちは黙々とカッターとヤスリで形付けていく。あー、折の奴と代わってやりたい。どうしてこの部に入らないのだろう? 憧れの先輩と、こんなに近くで作業できるって言うのに。
「……不毛だな」
「……不毛っすね」
 ガリガリ、キュキュ、ズザズザ。
「…………」
「…………」
 ガリガリ、キュキュ、ズザズザ。
「…………ッ!!」
 バン!と効果音が鳴るような勢いで、発泡スチロールの粉を撒き散らしながら立ち上がった柳津先輩。
 制服についた粉が、スパンコールに見えなくも無い。折がいなくて良かった。こんな姿、見せられるわけが無い。
「ラジオ体操やろうぜ?」
 輝くような笑顔で親指を立て、柳津先輩は言った。……折がいなくて、本当に良かった。
 俺の返事を聞く前に、もうラジカセ用意してるしな。つうか、なんでラジカセにラジオ体操のテープが常駐しているんだとか、気にしたら負けだ。そして、どうやら俺もやらないといけないらしい。どうしてラジオ体操なのかとか、ツッコンだら身が持たない。
 ラジオ体操で可愛い女の子と出会えるのならばやってもいいのだけれど。いっときますけど、私はロリコンではありませんよ。
 青い空に響く、男二人とラジカセの声。
 いっちに、いっちに。
 ガラガラ。
「……何やってるのかしら?」
 ……そして時は動き出す。
「うおっ、ことにゃんっ」
 開いた扉の奥には檜乃上琴羽(ひのかみ ことは)が立っていた。
 どうやら、ラジオ体操に紛れてノックの音が聞こえなかったらしい。
「よっ、檜乃上っ! お前もっ! やらないか!」
「…………」
 琴羽は汚いものを見るかのような目で、うっすらと汗をかいた俺と柳津先輩を交互に見ている。
「………遠慮、します」
 そして、扉を閉める琴羽。あれ、なんか用事あったんじゃないの? ……つうか、変な誤解されただろ今!
 ドスンと膝をつく俺。
 ラジオ体操し続ける柳津先輩。
「終わった……俺はことにゃんとこれからどう接していけばいい……?」
 おいおいおい、同じクラスなんだぜ……?
 すると、トントンとノック音。
「おっ、檜乃上か?」
 どうぞーと先輩が声をかける。
 ここで琴羽が来たのならまだ望みはあるのだが……
「うーす」
「……ちっ」
「あ、なんだよ雪春」
 一宮秋良(いちみや あきら)。俺のクラスメート……っていうか、この学校は一学年一クラスしかないんだけれどね。
「おい、秋良もやらないか?」
「先輩……ラジオ体操、を付けてくださいよ」
 言葉が足りないんだよ! そうしないから、さっきみたいなことになるんだ!
「どうでもいいっすけど……それ、続きやりませんか?」
 秋良が呆れたように、落ちている発泡スチロールを指差しながら座って言った。
「……」
「……」
「……雪春」
「……そうっすね」
 まったくの正論だ。
 俺と柳津先輩も座って作業の続きをはじめた。
 そして、不毛な戦いが始まった―――


「……暑いな」
「……っすね」
「………」
 舞う発泡スチロールの粉。
「……」
「……」
「……」
 噴出す汗。
「……」
「……」
「……」
 野郎三人、部屋の中。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「ああああぁぁあぁぁぁあぁぁああーー!!!!!!!!!」
「うおっ」
 ギャグ漫画よろしく、ビクッとしてしまった!
「お前らー!! ラジオ体そ」
「しません」
 アキ、グッジョブ。


「あー、雪春。時間、いいのか?」
「ん?」
 俺は時計を見る。四時半か。そろそろだな。
「あ? 雪春、なんかあるのか?」
「あ、ああ。ちょっと――」
「――デートにな」
 待て。
「……柳津先輩。俺の雰囲気を醸し出しながら、勝手に捏造しないでくださいよ」
 デートなんて華々しいもんじゃありませんよ。まぁ、俺が柳津先輩と代わってやれば、折にとってはデートになるのかな。


「あー、お疲れさん」
「じゃあな、また」
 俺は二人に手を振り、部室の扉を閉めた。中では『あー、二人きりだよ』『やらないか』などが聞こえてくる。ラジオ体操であることを祈る。南無。
 ……あー暑い。
 待ち合わせは六時からだから、本当はもう少し時間はあるのだけれど。あんな強烈男空間に長時間いられるかってーの。
 うーん、どうしようもないから、折の教室でも覗いてみようか。もしかしたら、まだ教室に残っているかもしれない。
 俺は階段を降り、折の教室に向かう。たしか、A組だったよな……と言っても、一年生も一学年一クラスしかないのだから、クラスの名前などはどうでもいいのだが。
 教室の前に着いた俺は、そっと覗いてみる。
「あー……」
 そこには、一人の少女がいた。
 学園祭の準備をしているのかと思ったが、どうやら違うらしい。少女が俺のことに気づいた。
「……網代先輩、ですか?」
 俺は首を縦に振って肯定する。
「……なにやってんだ?」
「――あ、別に。ちょっと、ぼーっとしてただけですよ」
 少女――姫川嬉乃(ひめかわ きの)は、伸びをしながら言った。
「あっそ、柳津先輩と秋良が部室で『アレ』、作ってたぜ?」
 『アレ』とは、主原料発泡スチロールの、完成予想図予測不可の『アレ』である。便宜上、『アレ』。
「……今日は、遠慮しときます。で、その先輩はサボりですか?」
「いーや、これからデートだ」
「そうですか。モテモテなんですね……相手は犬か何かですか?」
 ブチッ。
「犬って、俺は駄犬かよっ!!」
 喰らえ、俺式脳天チョップ。ちなみに、駄犬ってのはよく知らない。まあ、恐らく駄な犬なのだろう。
「痛った!! 何するんですか、ばか春先輩!!」
「うっさい。うるさいうるさいうるさい!」
「あー、死ねばいいですよ。先輩が言っても可愛くもなんともないんですよ!!」
「い、言ったなこのやろっ!!」

 時計を見れば、五時半。
「あー、っとそろそろ時間だ。俺はそろそろ行くぞ」
「さっさと行っちゃってください。あと明日は多分、部活に出られるんで」
「おーけー、じゃあな嬉乃」
「……はい。さようならです」
 嬉乃を教室に残し、俺は靴箱へと向かった。一度、家に荷物を置いていこうか。どうせ通り道だしな。


「うぃーす、ただいま」
 俺は玄関で靴を脱ぎ、自室に向かうための玄関を昇る。居間からは「お帰り」と聞こえてきた。成実姉さんはまだ学校だろうから、朋菜が帰ってきているらしい。
 自分の部屋に鞄を置く。着替えようかと思ったが、どうせ相手は折だ。そのままでもいいだろうという結論に達した。
 取り合えず居間に行く。
「朋菜、なんか食うもん無い?」
 妹である朋菜は、本を読みながら、
「無いよ」
 最近、妹が冷たい。思春期の少年少女特有の反抗期と言う奴なのだろうか?
「……もうちょっと考えてくれよ」
 朋菜は本から顔を上げ、何かを思い出すような仕種をした。
「ああ、そういえば。そこの冷蔵庫の野菜室に、りんごが一つだけ残って気がするよ」
「GJ、わが妹よ!」
 俺は高速で冷蔵庫を開けた。本当に、真っ赤に熟れたりんごちゃんが一人、ピーマンさんとにんじんくんに紛れて、たった一人だけいたぜー!!
 俺はその真っ赤なりんごちゃんにかじりついた。歯茎から血が出たが、そんなの関係ないぜ!
 あー、甘みが広がる。1日1個のリンゴは医者を遠ざけるって言うしな。ビタミン、ミネラル最高!!
「……お兄ちゃん、何叫んでるの?」
「えっ!!?」
 おっと、いけない。心の声が外部出力設定になっていたらしい。朋菜が不審者を見るような眼で、実の兄を見ている。
 っと、あんまりゆっくりしている暇も無いので、ものすごい勢いでりんごを食べ終え、芯をゴミ箱へ。
「じゃあ、ちょっと行ってくるわ。晩飯は適当に食ってるから」
 俺は朋菜にひらひらと手を振る。
「うん、行ってらっしゃい」
 朋菜は俺の方も見ないで言った。



   ※ ※ ※ ※ ※

 玄関を出る。
 学校を出たときにはまだ青空だったというのに、もう陽が落ちかけて、夕暮れになっていた。
 紅く朱い、赤が広がっている。
 俺は、夕陽が嫌いだ。なぜかはわからないけれど――心が不安になる。
 そういえば誰かが言っていた。赤は警戒の色。
 ……っと、急がなければ。
 ここで遅刻したら、またおごらなければならない。無限コンボに突入だ。



   ※ ※ ※ ※ ※

「あ、やっと来た」
 幼馴染みは既に、待ち合わせ場所であるこの町唯一の公園に着いていた。
 幼馴染みの頭上にある時計を確認する。
 六時、五分前。
 危なく、また奢らされるところだった。
「ったく……何分待たせるつもりよ? 私なんか、アンタより五分も前にここに着いてるんだから」
「いや待て、お前が早すぎるんだ。待ち合わせは、六時のはずだぞ」
 そんな俺の言葉も無視し、彼女は
「うっさい、私が来る前にアンタは来てなきゃダメなの! 罰ゲームなんだから」
 いや、理不尽だ。
「というか、なんでお前は10分も前に来てんだよ」
 彼女はそっぽ向きながら
「……たまたまよ。偶然。気まぐれ。なんでもいいわっ。……いいからほらっ、さっさとご飯食べに行きましょ」



   ※ ※ ※ ※ ※

 この町には壱ノ支商店街というものがあった。否、それしかなかった。
 ……文学的にカッコよく表してみようと思ったのだが、悲しさが余計に増しただけだった。
 それはともかく、この町には壱ノ支商店街と呼ばれる町唯一の商店がが集まる地区がある。それは町のちょうど中心と言える所に位置し、ここでの生活の基盤となっているのだった。

「なぁ、折」
 俺は隣を歩く幼馴染みに話しかける。
「なによ?」
 話しかけただけで、恐ろしい目つきで睨まれた。幼馴染みに話しかけただけで、そんな恐い思いをしなければならないとかこれいかに。だが俺は、彼女の凶悪な眼力にも負けず、訊いてみる。
「……また、あそこに行くのか?」
 再び折は俺の顔を睨む。なんだ、俺の顔には親の仇でもひっ付いてるとでもいうのだろうか。いや、これはセンスがないな。
「そうよ」
 肯定。つまり――
「はぁ……」
 俺、あそこ苦手なんだよ……
 幼馴染みは、腹部に手を当て言った。
「ほら、なにチンタラしてるのよ。私のお腹が、もう死にそうだって言ってるわ!」
 おい待て。それが俺のお弁当のおかずのほとんどを納めた腹の言葉か。



   ※ ※ ※ ※ ※

「おじさーん、醤油ラーメン二つっ!」
 折の元気な、元気すぎてうるさいくらいの声が店に響く。
 ……この店のメニューには、醤油ラーメン以外はないっていうのに。
 ここはこの町唯一のラーメン屋。名を「かえんそう」という。
 いや、それが正しいのかは僕は知らない。僕どころかこの町にも、この店主以外に真相を知ってる人間はいないと思われる。なぜならば、この店には店名が書かれたものは一切ないのだ。暖簾はある。だが、それは赤い無地の暖簾な。だから何もわからない。店主は何も語らない。それは、この町に伝わる七不思議のひとつに数えられてるとか……知らないけれど。だが、みんなが「かえんそう」と呼ぶから、ここは「かえんそう」と呼ばれる。なんだか、卵が先か鶏が先かみたいな。

「なぁ、折」
 一心不乱に麺と闘ってる幼馴染みに話しかけてみた。
「ん? どしたの?」
 話を聞くにしても、箸を置くつもりはないらしい。
「よく考えたら、こんなとこでラーメン食ってていいのか俺たちは?」
「え、どして?」
 本当にわからないらしい。
「だってお前、柳津先輩のことが好きなんだろ?」
「え……あ、うん」
 折は肯定する。
 そう、この俺の幼馴染みであるところの旗本折は、上級生で俺の部活の副部長であるところの柳津悠斗先輩に目下一目惚れ中なのだ。ラブである。青春なのである。
 それにしては、コイツは何も考えてないような気がする。
「だったら考えろよ。俺たちがこうやっているのを、誰かに見られる」
 さっきから店主がこっちをジッと見つめてるような気がするが、俺は気付かないふりをする。見えない!知らない!
「……見られる」
「『キャー!二年生の網代くんと一年生の旗本さんが一緒にご飯食べてるわ!ラブラブね!ラブラブよ!』という噂が立つ」
 そんなアホ指数全開な噂もどうかと思うけどね。
「らぶらぶ……それはマズいわね」
 そう言って、ラーメンをすする。
「そのわりには余裕だな」
「……周りを見なさいよ。誰もいないでしょ?」
 いや、さっきから店主様がみてる。それに気付かないのか。
「……それに、私たちなんか兄妹みたいなものでしょう?」
「ああ……」
 そうだ。そういえば、そうだった。それは俺が言ったんだっけ。
 確かに、幼馴染みというよりは兄妹と言った方が近いような気がしたのだ。この町に住んでる以上、ほとんどの人間が幼馴染みのようなものだ。でも俺たちの場合、他人よりちょっとだけその間が深い。結構昔から、縁があったからなぁ。
「それに……」
 折が何かを言いかける。
「ん、なんだ?」
「……うんん、なんでもないわ」
 コイツにしては、歯切れが悪い。いつもはどうでもいいことでもズバズバ言うくせに。
「なんだよ、言えよ。言いたいことは言わなきゃ、ストレスがたまって禿げるぜ」
「アンタなんかと私が釣り合うなんて、誰も思わないって言いたかったのよ。傷付くだろうから、黙っててあげようと思ったのに」
「俺自爆かよ」
 くそっ、いつも通りかよ!



   ※ ※ ※ ※ ※

「ごちそうさまー!!」
 折の元気な、元気すぎてうるさいくらいの声が店に響く。このモノローグは、再生文字を使用しております。
 折はさっさと出て行ってしまったが、俺には二人分のラーメン代を払うという義務がある。ラーメンを食べた以上、それは仕方のないことだろう。財布から紙幣一枚と硬貨五枚を取り出し、店主に渡す。
「…………」
 店主は相変わらず何も語ろうとしない。というか、一度も喋ったところを見たことがない。
「………ごちそうさまでした」
 反応は無いとわかっていても、それを言うのは礼儀だろう。ここに来た時は、毎回言ってるんだけどなぁ。表情すらも、変えたところを見たこともない。もしかしたらサイボーグなのかもしれない。サイボーグ店主。アホか。
 俺は外に出る。


「もう、何やってたのよ!? レディーをこんな暗い街中で待たせるなんて非常識だわ」
 おい、飲食代を払っていたんだよ。しかもお前の分もな。……すいません。遅刻した俺が悪かったです。だが反論はある。
「レディーって誰だよ」
 ベタだと笑われるかもしれない。
「レディーったら、私のこ」
「レディってのはそれにふさわしい態度やらを身につけた淑女のことだ。待ち合わせにおいての遅刻で、罰ゲームと称しラーメンを奢らせるようなやつは断じてレディーとは言わない」
 言った。どうせ殴られるんだろ?
 もう慣れた。
「………………」
 上目遣いで俺を見る折。(背があまり高くないということは内緒にしておいてやろう。あ、やっちゃった)
「なんだよ……」
「…………」
 一向に上目遣いを止めようとしない折。なんだよ、気色が悪い。
 うわっ、しかもちょっと涙目だし!
「ちょ、待て。悪い、言い過ぎたか。泣くな、泣くなよー」
「ううぅ……」
 やべっ、本気で泣きモード突入ですか。
 どうすればいいか分からずオロオロしてる俺を無視し、歩き出す折。
「お、おい。どこ行くんだよ……?」
 泣きながら歩き出した幼馴染みを放っておけるほど人間としてまだ終わってない俺は、仕方なしに折を追いかける。
「……ったく」
 にしても、泣いてる女の子を追いかける俺。傍から見たら、どう考えても犯罪の匂いがプンプンする構図だよな。知らない人とすれ違わないことを祈っているぜ……っと言っても、この町の人間はほとんど知り合いだから、間違っても手錠をかけられるような間違いが起きることはない。……ないと思う。おい、信じてるぞ。


 突然、目の前を泣きながら歩いていた少女は足を止めた。いや、途中からどこへ向かうかは何となくわかっていたけれど。なんせ……
「おい折……なんで学校なんだ……?」
 彼女は振り返る。その目には既に涙はなかった。涙の跡はあったけれど。
 少女は、幼馴染みは言った。さっきまで泣いていたというのに、今度は笑って。
「雪春……ねぇ、楽しいねっ」
 なんの脈絡もない問いかけ。
 楽しいことになってるのはお前の頭だ、とは言わなかった。
「……ずっと、こうしていたいなぁ……そう、思わない?」
「……ああ」
 こうして。こうしてバカやって。騒いで。
「でもね……」
 でもだ。
「……いつかは、終わりが来るの」
 たとえば、お前が柳津先輩と付き合ったり。
「……それが、つらい」
「……でもさ」
 折は、笑いながら言う。
「うん。……この楽しさは、いつか終わりが来るから楽しいんだって……」
 終わりが来ないなんて……そんなの、楽しさなんかじゃない。
「でも……私は、ね……」
「…………」
 沈黙。折はうつむいたままだ。
「…………」
「…………」
「えっと、どうした?」
 折は慌てて顔を上げた。そして、両手をぶんぶん振る。そりゃあもう、引きちぎれるくらいの勢いで。
「ちょ、ちょっと、とと、ととと」
「とと?」
「ちょっと、トイレ行ってくるっ!」
 そう言って、学校の校舎に向かって走り出す折。
「おい、待て!!」
 いやいやいや。開いてるかもわからないのに、そんな勢いで走っていくなよ。というか、トイレをしにこの学校まで来たっていうのか? なんかおかしいぞ。
 走って追いかける俺に、折は振り向きながら言う。
「ちょ、ばか! ついてこないでよ、変態っ!!」
「なっ!!!」
 折の言葉は俺のハートを貫いた。衝撃的な意味で。
 よく考えてみればそうだ。若い女の子がトイレに行くってのに、ついて行こうとするのは間違いなく変態のすることである。変態ではないはずの俺は、仕方なくその場で待ってることにした。どうやら、学校はまだ開いているらしく、折は難なく入っていった。それもそうか。校門が開いてたわけだし。学園祭までもう少しだしな。

「…………ふぅ。女の子の考えることはよくわからないぜ」
 玄関前の段差に腰掛け、さっき幼馴染みの言った言葉を思い返してみる。
『雪春……ねぇ、楽しいねっ』
『……いつかは、終わりが来るの』
『……それが、つらい』
 確かに、俺だってつらいさ。
 この日常が、いつまでも続くなんて、そんな都合のいいことは、絶対にない。
 楽しいことには、必ず終わりが来る。
 それは、どうしようもないくらいに正しいこと。
 ………つらいことには、際限なんかないっていうのに。
 ああ、まったく。
 ダメだ、アイツはそういうことを考えてしまうと、どこまでも落ち込んで、小さくなってしまうんだ。
 たとえいつか、この楽しい時が終わってしまうとしても、せめて今は楽しもうじゃないか。でなきゃ、本末転倒というものだろう。
 ……戻ってきたら、アイスでも買ってやるかな。財布の中には、少しくらい残ってるだろう。
「それにしても、遅いな……」
 いや、どれくらい時間がかかるのかもなんか知らないし、どこのトイレに入ったのかも知らないんだけど。もしかしたら、知り合いでもいたかな。あー、そういや教室に嬉乃がいたからな。話をしているのかもしれない。じゃあ、嬉乃でもからかって、三人でアイスでも食いに行くか。財布の中には、少しくらい残ってるだろう……多分。ええい、足りなかったら俺はいらない! さすが俺、ちょっとカッコイイかもしれない。まぁ、先輩だしな!
 俺が立ち上がり、校舎の中に入ろうとしたときだった。

『……いつかは、終わりが来るの』

 グシャリ。そんな音がした。
『終わりが来るの』
 グシャリと、あっけない音がした。
 折が、そこで落ち込んでいた。
 俺は上を見上げる。
 四階建ての校舎が、そびえ立っていた。
 もう一度、折を見る。
 真っ赤な折が、アスファルトの上で、落ち込んだように潰れていた。
 真っ暗だったのに、その赤色はいやにはっきりと見えた。ぬめりがあるような、そんな深赤色。
『終わりが』
 終わりが来た。
「あ…ああぁ……」
 それは間違いなく、終わりだった。
 なんで? どうして?
 疑問符が脳の中をぐっちゃぐちゃにかき混ぜる。
「は、あはははは」
 さっきまで、あんなに楽しそうにしてたのに。なんだってんだよ、これは。
 折が、退場してしまった。見ればわかる。こんなぐちゃぐちゃに曲がったにんげんは、いきているはずがない。
 終わった。この話は、終わった。主要人物の死亡により、幕引き。さようなら。さようなら。
 こんな物語の主人公なんか、俺はまっぴらごめんだ。

 ばっつん。

     <BAD END>




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