短編
僕がその本を選んだのは、偶然だった。
いや、ひょっとしたら、必然だった。
1
僕はふと足を止めた。
視線がある一点に注がれる。
それは本だった。
いや、特におかしなことではない。ここは古本屋なのだから。
ただ、気になったのだ。その本が。
本に書かれた題名は『蒼い空の物語』。
その本を手に取り、裏を見る。
本の解説が載っていた。どうやら恋愛物らしい。
恋愛物の小説が苦手な僕は、その本を元のあった場所にした。
そして、他の本に目を移した。
2
今日、買った本は三冊だった。
その中には例の『蒼い空の物語』も含まれていた。なぜか、買わなければいけないような気がした。理由はそれだけだった。
僕はおもむろに例の本をぱらぱらとめくり始めた。
そのとき、ぱさり、と何かが二つ落ちた。
買う時に、それらが挟まっていることに気が付かなかったらしい。
落ちたそれは一見、しおりのようにも見えた。が、手紙のように見えた。手紙といっても、大事に封筒の中に入れられているものではなく、メモ帳くらいの紙が半分に折られているような、手紙。
このメモ帳のようなものを、初めから『手紙』だと認識できたのは、なぜだかは分からなかった。だが、ほぼ確信していた。見た瞬間、手紙だと。
そのメモ帳の両面には、びっしりと細かく、それでいて丁寧に文字が書かれていた。内容が気になったが、もう一枚落ちたものにも興味があった。
落ちたもう一枚は写真だった。
青い海と、青い空が美しい。どこかの崖の上で撮られたらしいその写真。そして、真ん中より少し右よりのところには、白いワンピースを着た少女が立っていた。少女といっても十八~十九くらいだ。美しく整った顔立ち。白い服の少女が、崖の上から海を見ていた。
虚ろで、生気の宿っていない瞳で……
僕はそれを見た瞬間、写真を手放していた。なにか、いけないものに触ってしまったような気がした。
その刹那的な美しさが、不気味だった。
時計を見ると、既に深夜だった。
僕はその手紙と写真を引き出しの奥に入れ、寝ることにした。
3
寝不足だった。目を瞑ると、あの少女の顔が浮かぶのだ。幸い、今日は休日だったのでよかったが。
僕は引き出しを開け、手紙だけを取り出した。写真は、見たくなかった。
手紙の書き出しはこうだった。
あなたには夢がありますか?私の夢はもう一度、あの島へ二人で行くことです。
唐突な内容だった。それも当然だ。別に自分に宛てられた手紙ではない。自分は無関係なのだ。
続きを読み続ける。
その細かい字で、延々と書き綴られた手紙は、主に写真の彼女(だと思う)の楽しかった思い出で占められていた。
一体、誰へ向けた手紙なのだろうか。
引き出しをもう一度開け、奥から写真を取り出した。既に、少女の写真は不気味とは思わなかった。親近感すら、沸いていた。
それは、彼女の考えていた事に触れられたからだ。死体のような、虚ろな瞳。でも、しっかりと意思を持ち、物事を考えていた。楽しい思い出もあった。当たり前なのだが、自分と同じ人間だということが分かって安心したのだ。
それと同時に、彼女と話をしてみたいという衝動に駆られた。
いや、しなければならないとさえ思った。自分でも分からない、誰かに引っ張られるような感覚。見えない手に引きずられるような感覚。
だが、どうしようもないのも事実だった。
僕が彼女について知っていることは、たった一つだった。
手紙の一番下に書いてあった名前。『瑞崎ユキ』という名前だけ。
どこかで聞いた事がある様な気がした。が、思い出せない。確か中学生の頃の同級生に、似た名前のやつがいたような気がする。……いや、あいつは違った。
とにかく、『瑞崎ユキ』という名前しか分からなかったのが、どうも歯痒かった。
電話帳で調べてみてもなかった。近辺には住んでいないのかもしれない。
もう一度手紙を読み返す。地名や場所を特定できる言葉を見落とさないように。
4
『蒼い空の物語』を手に取ってから一週間が経った。僕はバイクに乗りH島県を目指す高速道路を走っていた。
例の手紙には、H島県にある島の名前が記してあったのだ。『彼女の夢』でもある、あの島だ。
それにしてもぼろぼろなバイクだ。そろそろ換え時か。所々へこんでる。
H島県に着き、船に乗り継ぎ、ようやく手紙に記してあった島に着いた。
歩いて回れるほどの広さしかない島だが既に暗かったので、予約しておいた旅館で休むことにする。
日が昇り、僕は手がかりを探し始めた。
それは案外簡単に見つかった。門に『瑞崎』と書かれていたのだった。
間違っているかもしれないので、やや緊張気味に呼び鈴を押す。人が訪れたことを告げる音が小気味よく響く。奥からも声が聞こえる。
扉を開けたのは女性だった。自分の母親と同じくらいの歳だ。
その女性に、失礼を承知で問いかける。
あなたに娘はいますか、今どうしていますか、と。
母親の顔色が変わったのがわかった。そして、どうぞお入りください、と一言。
冷房のよく効いた部屋に通された。どうぞ、と麦茶が出される。僕は会釈した。
僕は直感的に悟った。この人は、あの少女の母親だ、ということを。
5
僕は夕陽を見るために、急な坂道を歩いていた。そのとき考えていたのは、写真の少女、いや、瑞崎ユキのことばかりだった。
やはり、女性は写真の少女の母親だった。写真と手紙を彼女に見せた。間違いない、と女性は言った。
僕はこの写真と手紙を手に入れた経緯、ここまで来た理由を話した。
そのとき、女性の頬を涙が伝った。僕は訳が分からなかったが、その後すぐに知ることになる。
彼女は死んだんです。
頭の中が真っ白になる。まったく知らないはずの人間の死が、これほどまで自分に衝撃を与えるとは。
母親の話をまとめる。
瑞崎ユキ……本名、瑞崎由紀は上京し、現在僕が住んでいるあたりに住んでいたらしい。彼女は去年の夏休み、つまりちょうど一年前に、仕事先で知り合った男性と彼女の故郷でもあるこの島に遊びに来た。そのとき撮った写真が例の写真じゃないか、などということも女性は言っていた。
彼女とその男性は、彼女の実家へ向かうために、バイクに乗っていた。この島の峠にあるカーブとても急だった。カーブの向こうは崖だった……
……結果的に、彼女は無事だった。
脳に障害を受けたこと以外は。
彼女は事故のショックで、混乱状態に陥った。彼女は手紙を書き続けたそうだ。一緒に事故にあった男性に。読書が大好きだった彼に。
といっても、当時の彼女は手紙の送り方も分からなくなっていた。彼女のとった方法とは、古本屋の本に自分の手紙を挟める、ということだった。おそらく、本好きの彼が読んでくれるかも知れないという、彼女なりの考えだろう。
僕の家の近くの古本屋に手紙があったのは、彼女はそのすぐ前の病院に入院していたからだ。
……そこで気になるのが、共に事故にあったはずの男性だった。
彼は、今だに見つかっていないらしい。死体はおろか、バイクすら無くなっていたらしい。
事故の夜、尋常じゃない量の雨が降ったという。その雨が男性の死体や、身元を示すものを海に流していった、ということになったのだ。男性は彼女の母親に会う前に亡くなったらしい。
彼女は死んだかもしれない彼に向けて、手紙を書き続けていた。
彼女は手紙を書いては古本屋へ行き、自分の写真と手紙を挟むという行為を繰り返していた。
延々と。
ある日、退院し実家に戻っていた彼女は、いなくなった。
母親が目を離した瞬間だった。
彼女は崖の下で見つかった。例の、事故のあった崖だ。
その瞬間、十九年の短い生涯を終えたのだった。
彼女が書いて、本に挟めた手紙を残して。
そして、僕が受け取った。
関係もない、僕が。
関係ないと思っていた、僕が。
ううん。違う。無関係なんかじゃない。
途中から分かっていた。女性の話を聞いている途中から。
もう一人の僕が優しい声で囁く。
ううん。違う。無関係なんかじゃない。
僕だ。
思い出した。
ここへ乗ってきた、ぼろぼろのバイク。
『瑞崎ユキ』という名前を聞いたことがある、だって?
当たり前だ。あいつは…… あいつは僕の……
6
ちょうど崖の前に着いた。
夕陽が空を、海を紅く染めている。
そこは事故があったところでもあり、彼女が見つかったところでもある。
写真を手に取り、見る。同じ場所なのに、まったく違う。
僕は生き、彼女は死んだ。
彼女は僕を覚えていたのに、僕は彼女を忘れてしまっていた。
二つは交わることは無く、分かたれた。
彼女を想い、その紅い陽が消え去るまで見つめていた。
僕の心はいくら陽が照らしても、暗く、蒼いままだった。
<了>
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