僕と死者と後輩が修羅場すぎる




 これは人でなしの恋と、その顛末の物語だ。


※ ※ ※


 僕は頭を抱える。放課後の空き教室には僕と向かい合うように、もうひとりの人間が黙って座っていた。気付かれないよう、僕はちらと様子を覗う。
 山本千佳子はつまらなそうに文庫の推理小説を開いているが、見たところページは一向に進んでおらず、同じ場所を何度も目で追っているようだった。猫のようなその瞳が、不機嫌さを物語っている。
 いたたまれない。自ら蒔いた種ながら、その一言に尽きた。僕は何かから逃れるように、壁にかかった時計に目を遣る。指定されていた四時からすでに三十分が過ぎていた。いくらなんでも遅すぎやしないか、と思ったときだった。
 がらら、と横滑りのドアが開いて、僕が待ち望んだその人物はようやく教室に入ってきた。



※僕と山本千佳子1※


 榴椅栖高校の一年生である千佳子と三年生である僕は、表面上はミステリ研究会の先輩と後輩という関係以上はなく、事務的な会話はすれど積極的に関わるようなことはなかった。いままでは。
『先輩、相談があるんですけど』
 部室でそんな言葉が聞こえたとき、携帯電話でニュースを見ていた僕はその『先輩』が僕を指しているとはまったく思わず、とはいえ野次馬根性を出すのも恥ずかしいので無視を決め込んでしまっていた。
『先輩、聞こえてますか?』
 顔をあげたときの周囲の目と、千佳子の軽蔑するような視線が突き刺さり、『ア、アウ』と動物の呻きみたいな返事しかできなかった。
 一年生である彼女が入部して既に半年以上経っていたが、僕は彼女に『先輩』などと呼ばれることはいままで一度もなかった。同じミス研の部員である僕の数少ない友人の神崎(かんざき)が「素人ギャルナンパしてみました的なAVとかに出てそう」と陰で評した、茶色に染まった短いウェーブとやや濃い気がする化粧、そして高校進学半年にして着崩した制服。「ミステリ」という接点がなければ、僕みたいに数年前まで部屋に引きこもっていた人間にはおそらく一生縁のないような人種だった。もはや宇宙人と地底人の会合である。というか、この娘(こ)が小説を嗜むこと自体やや驚きを隠せないのだが、それは偏見というものだろう。彼女が『今週は斎藤(さいとう)栄(さかえ)強化週間』などとのたまい、テーブルに氏の著作三十余を乗せたときは、驚愕を通り越して正気を案じた。なぜそこを強化するのだ。
『お願いがあります』他の部員の目を気にしたのか僕を廊下に連れ出し、話しはじめた千佳子に、僕は自分の耳を、そして次に千佳子を疑った。
『わたしと一緒に《あの事件》を再考してください』

 《あの事件》に関する話し合いは、なぜか僕の部屋で行われることになった。僕としては、どこかの喫茶店――学校の目の前にちょうどいい場所があるのだ――かなにかでするつもりだったのだが、彼女にそういわれれば拒否する口実は何も浮かばなかった。おそらく周りの目を気にしたのだろうと、自らを納得させる。ということで千佳子を部屋の中に招くことになってしまったのだった。
 千佳子は僕の部屋に入るなり、落ち着きなくきょろきょろと辺りを見回す。
「……男の部屋なんか、入り慣れてると思ったけど」
「悪いですけど」僕の皮肉っぽい言葉に、千佳子は恥ずかしがる様子もなく、「わたし、まだ処女なんで」
 僕にそんなことを明かされても困る、というのが心情だったが、とりあえず話は流しておく。僕は、背伸びしながら本棚を眺めている千佳子に尋ねた。
「……ええと、なんて呼べば」
「普通に、下の名前でいいですよ。それより、私こそ、なんて呼べばいいのか……」
 本棚から目も逸らさず、千佳子はそう呟いた。
「なんでもいいよ。上目遣いで『お兄様』とかそういうので」
「……嫌ですよ、セ・ン・パ・イ」
 と、機嫌の悪そうな顔でそういう。僕は話を変えるように、
「……なんか興味ある本はあった?」
「いいえ」千佳子はしゃがみながら答える。相変わらず、視線は本棚に向かったままだ。「私の部屋にある本と、だいたい同じですから」
 どうやらこの部屋にある本程度は網羅しているらしい。床が抜けないかが心配だった。
 僕がそんなことを思っていると、千佳子は、
「さてと、本題です」
 と、ちゃぶ台の前に置かれた座布団に、スカートの中が見えないよう器用に座った。僕は座る場所がないので仕方なくベッドに腰掛けた。
「《あの事件》って、美意菜(みいな)の死んだ……話だよな」
 僕は彼女のことをなるべく思い出さないよう努めた。僕の言葉に、千佳子は当然だといわんばかりに頷く。
「美意菜先輩が……《バベル》から落ちた事件です」
 《バベル》――榴椅栖高校には、バベルと呼ばれる図書館がある。奇妙な形の建築物で、七階建ての細長い、到底図書館には見えない代物だ。曰く、学校の隣に住む物好きの老人が建てたものを、彼の死後、敷地の傍にあったということで学校が買い取り図書館として利用しているという。
 そのバベルの屋上から、半年前の四月の終わり、ちょうど僕の誕生日の深夜に、平塚(ひらつか)美意菜という女子生徒が落下した。
 冷たくなった彼女の死体は翌朝、出勤した用務員のおじさんが発見したという。争ったあとや抵抗した痕跡がなく、そしてある決定的な事実を元に警察は、事件性はないと判断し自殺だいう結論を出した。
 なぜなら、そこが密室だったからだ。
 ミステリにおける他殺の常套。だがしかし、これは現実だった。バベルの扉や窓は、すべて鍵が閉まっていたという。三年生で図書委員長だった彼女は、鍵の管理を一任されていた。深夜、彼女はひとりバベルの中に入り鍵をかけ、屋上へ上りそこから飛び降りた……それが公式の見解だし、世間が納得した経緯(いきさつ)だった。
 ……しかし、千佳子は『事件』だという。たしかに自殺は事件であるが、それを『再考』するということは、警察の判断に対立するということを意味している。
「ええと……なんで、あれが事件だと思うのさ」
 手始めに僕が千佳子に訊く。彼女は黙ったまま制服のポケットからスマートフォンを取り出し、いくつか操作してこちらに寄越してくる。手に取るが、ゴチャゴチャとしたストラップでずしりと重い。僕は画面を覗いた。
『明日の放課後、お宅にお邪魔してもいいですか?』
 とだけ書かれたメール。差出人は――話の流れから思った通り『平塚美意菜』と書かれていた。
「……そのメールは、あの事件の起こった、まさにその夜に送られてきたものなんです」千佳子は猫のように目を細める。
 僕はさり気なくメールの受信時刻に目をやる。事件の起きた四月の日の、深夜三時過ぎ。確かに、美意菜の死んだ日時だった。
「自殺する人間が、死ぬ直前にこんなメールを送るわけがない、と」
 僕が彼女にスマートフォンを返しながらいうと、千佳子は深く頷く。僕は続ける。
「自殺を否定する要素としては少し乏しいけど……とまれ、違和感としては残しておこう。仮に自殺をするつもりでなくても……事故の可能性も、まだ残ってる」
 千佳子は少し呆れたような顔をする。何か失言をしただろうか。
「深夜に図書館の屋上から事故死ですか? そのほうが不自然だと思うんですが」
 ……そうだった。確かに深夜、図書館の屋上から誤って落ちるには理由がない。僕は自分の間抜けさ加減にうんざりした。
「メールのことから自殺であること、深夜であることから事故であることを否定する。つまり……自殺に偽装された事件だ、といいたいわけだ」
 まとめると、千佳子は「ええ」と自信なさげに小さく頷く。「厳密性が足りない、でしょうか?」
 僕は黙るしかできなかった。確かにそれらは、他殺を示す明確な証拠というにはやや弱い。だが同時に、確実に自殺であるとするには、いささかの問題でもあった。
「……そのメールの差出人が『平塚美意菜』ってなってるけど、それってアドレス帳に登録してるからそうなってんだよな。そのスマートフォンのアドレス帳の、別のメールアドレスを『平塚美意菜』で登録すれば、そう表示されるんじゃないか?」
 僕はふと思いついたことを口に出した。
「……なるほど、つまり」千佳子は目を細める。何を考えているのかよくわからない表情だった。「私が先輩を、騙そうとしていると」
「あ、いいや……」やってしまったと後悔した。推理するということは、他人の尊厳へと土足で上がり込むことだ。僕は自分の迂闊さを恨む。これは推理小説ではないし、僕は奇抜な名探偵ではない。閉じれば終わりの本なんかとは違い、現実の禍根はそこからも、どこまでも続いていくのだ。「……悪い」
「いえ、気にしてません。それでこそ、セ・ン・パ・イ、です」
 と、よくわからないことをいいながら千佳子はスマートフォンをいじり、再びこちらに寄越してくる。画面に映った差出人の詳細には、平塚美意菜の名前と共にアドレスが書かれていた。確かめてみろということらしい。僕は取り出した自分の携帯電話のアドレス帳と見比べてみる。二つのアドレスに相違はない。
「……このメールは、美意菜の携帯電話から送られたものに間違いない、ということだな」
 僕の言葉に千佳子は黙って頷く。おそらく、『美意菜が送ってきたもの』といわなかった意味もわかっての了解であろう。彼女は素行こそ際どいが、頭は決して悪くない。むしろ僕よりずっと、もっと上の高校を志望できるほどよいらしい。
「美意菜の携帯電話はどうなったんだろ」
 僕がひとりごとのようにいうと、
「事件の朝……メールに気づいた私は電話かけてみたんです。そうしたら警察のひとが出ました」
 それで事件を知ったんです、と千佳子は付け足した。
「朝か……」事件の朝ということは、美意菜の死体が見つかったちょうどその頃だろうか。
「そのメールが犯人の偽装だった可能性は……って、それじゃあ他殺説を強化してるだけか」
 いけない、と僕は思う。危うく千佳子のペースに巻き込まれるところだった。あくまで僕は、自殺だという点は譲っていない。
 それに、仮に他殺だとするのならば、犯人がそんなメールを送る必要がない。自殺に見せかけた意味がなくなってしまうからだ。ではこのメールはなんだろうと、僕は混乱した。
「遺書とか、なかったんでしょうか?」
「少なくとも、僕は知らないよ」千佳子の問いに、僕はポケットに手を入れながら、首を傾げる。「なんでそんなこと、僕に訊くのさ」
「いえ……」千佳子は歯切れ悪くいいながら首を横に振る。「遺書があれば、決定的なんですが」
 その物言いは奇妙だった。確かに直筆の遺書があれば、自殺である決定的な証拠になる。そのこと自体は別に構わない。
 問題なのは、千佳子の立場だった。彼女はこの件を殺人事件だと見做しているはずだ。ならば遺書など見つからないほうが、都合がいい。そんな彼女が遺書を問題にしてきたというのが、僕には不可解だった。
「あ、そうだ。もちろん」僕の思案を訝しんだのか、誤魔化すように千佳子は両手をポンと叩いた。「このメール、警察には知らせましたよ」
「ああ」それは重要なことだった。「いつ?」
「そりゃあ」千佳子は僕を一瞥して、「事件が発覚して、その直後です」
「まあ、そりゃそうだな」しかし千佳子のメールにしても警察は自殺説を覆さなかったということらしい。そのメールだけでは、密室であった事実は動かし難いのだろう。
「気になるのは、事故にしろ事件にしろ、どうして美意菜先輩は、バベルの屋上なんかにいたかってことなんですよねぇ……」
「自殺ならその点、すっきりするんじゃない?」
 僕はつい、彼女の腕に刻まれていたリストカットの痕を思い出しながらいう。
「でも、自殺なら、メールが……」いけない、これでは堂々巡りだ。千佳子もそれに気づいたのか、「……ともかく、事件か事故だとして、です」と言葉を補った。
 ……結局、三十分ほどの話し合いは建設的な意見が出ないまま、自殺と他殺を行ったり来たりして終わった。
「じゃあ、私はこれで」
 千佳子はそういって、部屋から出ていった。僕はなんだかな、と思いながら、その後ろ姿を見送った。


続きは電子書籍で(終わり)



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