3.再会


「こんにちは」
 頭の上から降ってきた声に、わたしは文庫本から顔を上げた。天然パーマの男が白い息を吐いて立っている。わたしは辺りを見回した。冬の、しかも早朝の駅に人影はもばらで、わたしの周りには男以外の誰もいない。つまりこの見知らぬ男は自分に話しかけているのだ。
 わたしは訝しく思いながら、ベンチに座ったままもう一度男を見る。ヨレヨレのコートを着た、天然パーマの長身の男。わたしは背の低い方だがら、立って並べばほとんど見上げる形になるだろう。
 わたしは眼鏡を外して尋ねた。
「誰、ですか?」
 男はわたしの問いにすべてを知っているかの様に大きく頷く。
「僕は紫藤陽花。よろしく」
「……で、その紫藤さんが何の用ですか」わたしはしおりを挟んで膝に乗せた本を見やる。大好きなミステリ作家の新刊だ。「わたし、読書に戻りたいんですが」
 非難する様に言ったが、紫藤は無視して「隣、いいかな」と、わたしの隣に腰掛けてくる。
「君、この本読むの初めて?」
 図々しい態度の紫藤の質問にどう答えようか迷った。悔しかったが、しぶしぶ頷く。
「確か新しい本なんだよね。いつ出た新刊?」
 わたしは文庫本の表紙を無意識に撫でていた。少し折れ目がついてしまっているような感触がする。男の言葉を吟味した。言葉が繋がってないし、質問も妙だったがわたしは正直に答える。
「昨日ですけど……」
 なるほど、と男は立ち上がった。
「君のいましおりを挟んでるページの最初の文、『きっとまたいつか会おう。』だろ?」
 唐突な紫藤の言葉にわたしははっとして、膝に乗せていた文庫本を開いた。しおりがスカートに落ちる。
「……さっき、見たんですか?」
 そうだ、紫藤は先程まで本の見える位置に立っていたのだ。だから言い当てられても不思議ではない。
 紫藤は首を横に降る。
「次のページ……いや二ページ先は『声を荒らげた。』だろう?」
 わたしは先を見るのが嫌だったが、仕方なしに次のページをめくる。わたしは目を見張った。
「あなたも……これ、読んだんですか?」
 出たのは昨日だ。読んでいてもおかしいことはない。紫藤は「まあ、ある意味ではそう言える」といったあと、わたしを指さす。いや、わたしではない。わたしの持っている文庫本だ。
「この本の奥付を見てごらん」
 わたしは本の最後の方を開く。奥付には日付が載っている。
「いつになってる?」
 わたしは眼鏡を再びをかける。
「……六月の四日。それが何か問題ありますか?」
 紫藤は大いに、と頷く。
「まず君の持っている本、昨日でたばかりなのにボロボロすぎる」
 わたしは持っている文庫本に目を落とす。
「うそ……」
 驚愕した。わたしの持っていた新刊――新刊だったはずの文庫本は、表紙が破れ、腹も黒く歪んでいた。まるで何度も読まれたかのように。入れ替わった? さっきまではもっと綺麗な……本当にそうだったか?
「次に君のその格好」
 紫藤にいわれ、わたしは両腕を抱いていた。袖から覗く二の腕に鳥肌が立っているのがわかる。
「最後にその奥付けだ。六月四日。今日の日付は――」
「六月……」
 紫藤の赤いチェックのマフラーが目に入ってきた。どうして、さっきまで少しも気にならなかったのに。どうして――
「織島綾姫さん」
 紫藤がわたしの名前を呼ぶのと同時に、電車が来たことを知らせるアナウンスが鳴った。わたしはカバンを掴んで立ち上がる。
「僕と一緒に来てくれますか?」
 駅に電車が滑り込んでくる。わたしは紫藤の言葉を無視して電車に乗り込む。紫藤は追って来なかった。具合が悪い。頭が痛い。寒気もする。
 ドアが閉まる。電車はゆっくりと進んでいく。
 見ると、窓の外で紫藤が何かをいっていることに気づいた。わたしは吐き気を抑えながら、目を凝らす。
『また、明日』
 そうだ、思い出した。わたしの記憶はここで途絶えるのだ。


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